( 歌手、俳優、詩人、作曲家、映像作家、レコ-ド・プロデュ-サ- )
1934年2月19日、パリ郊外のルヴァロワ生まれ。両親はイスタンブ-ルから自由の地を求め移住してきたユダヤ系移民。少年期、戦争により預けられていたヴァンデの農家の生活からその後の作品に影響する多くのインスピレイションを受ける。14歳の時にはギタ-を抱えて世界を放浪する。音楽とスポーツは言語も国境も越えるコミュニケーション・ツール、と語るピエール・バルーはその2つの才能を駆使し(バレーボールでナショナルチームに選抜されるほどだった) 、30才になるまでその放浪生活は続いた。
1959年、リスボンで聴いたブラジル人ミュ-ジシャン、シブ-カの演奏をきっかけにブラジル音楽にのめり込んでいく。その後出会った故バ-デン・パウエル(ブラジル音楽最高のギタリスト)との親交は、ピエ-ルのキャリアの中でも特別なものを持つ。そしてピエ-ルはフランスに初めてボサ・ノヴァを紹介した人物としても知られている。バ-デンと共作した「サンバ・サラヴァ」という曲は世界中に衝撃を与えた名曲として今なお愛され続けている。
1962年秋にはテネシ-・ウィリアムスの「ガラスの動物園」で俳優としてもデビュ-した。そして1965年に映画監督クロ-ド・ルル-シュの誘いで映画『男と女』に出演、劇中主題歌も担当する。製作にあたって資金繰りに苦労したが映画はカンヌ映画祭でグランプリ、サントラ・アルバムも世界中で大ヒットとなる。ハリウッド俳優級の生活を手にするが「スターのゲットーは嫌い」とあっさりその生活を捨て、数々の名曲を生みだす吟遊詩人であり続けている。
この映画で成功した資金をレコ-ド製作に惜しげもなく注ぎ込み始めるため1965年サラヴァ・レ-ベルを設立する(これは結果的にフランスで最も古いインディペンデント・レ-ベルとなった)。それに並行して1968年には映画『白い恋人たち』の音楽も担当する。
才能がありつつも、表現する機会を得られなかったア-ティストたちにチャンスを与えることとなったサラヴァには、国境を越えた多くの才能あるア-ティストたちが辿り着き、巣立っていった。当初はメディアやマスコミから無視されたが、ピエ-ルの情熱によって次第にファンを(世界中に)獲得していく。当時の代表作としては「ブリジット・フォンテ-ヌ/ラジオのように」(1970)、「ピエ-ル・バル-/サ・ヴァ、サ・ヴィアン」(1971)があまりにも有名であり、現在もロングセラ-を続けている。
以後、経営危機に陥ったこともあったが80年代から始まる日本音楽シ-ンとのコラボレイション(坂本龍一、高橋幸宏、鈴木慶一、清水靖晃他)もあり、90年代に入ると再びレ-ベル運営も安定し、新作も次々と制作されるようになっている。そして気がつくと世界中に蒔かれたサラヴァの種子、フィロソフィ-に共鳴するものは今なお増え続けている。特に日本では多くの支持者がいることで知られている。
ここ数年はサラヴァのアルバム・プロデュース、フランスとケベックでのコンサート・ツアーを中心に幅広く活動中。他にはクロード・ルルーシュ監督映画『愛する勇気』(2005年仏公開)に楽曲提供&友情出演、「フランスにおけるブラジル年」(2005)でホベルト・メネスカルやジルベルト・ジルらと多数のイベント出演、サラヴァ創設40周年記念コンサートをフランス40ケ所で実施(2006)等。日本では中村善郎とヤヒロトモヒロとの全国ツアー、フィルム・フェス開催、世界初の著作本『サ・ヴァ、サ・ヴィアン』(求龍堂)を日本のみで発売(2006)。
2007年には最新作『ダルトニアン』を発売。同年9月17日に恵比寿ガーデンホールで15年ぶりの東京公演(ホールコンサート)"ピエール・バルー コンサート2007 ~航海日誌~カルネ ド ボール"を行う。スペシャル・ゲストとして高橋幸宏、カヒミ・カリィも駆けつけ大きな話題を集めた。その後はフランスを中心に活動を続けるも、2013年5月に小野リサ、ジョアン・リラをゲストに迎えサラヴァ東京で、2014年12月には佐野史郎、清水靖晃、優河をゲストに迎え再度サラヴァ東京で来日コンサートを行った。
2016年にはサラヴァ・レーベル50周年を記念して、10月に渋谷O-EASTで記念コンサートが行われた。ゲストに戸川純/中納良恵(EGO-WRAPPIN')/中村中/マイア・バルー/優河他が参加。11月にはフランスで同じく50周年記念コンサートも行われた。
2016年12月28日16:55(パリ時間)、死去。
「ピエール・バルー/限りない宇宙 - ピエール・バルーからの「おくりもの」」
「ピエール・バルーwith清水靖晃&ムーンライダーズ/カルダン劇場ライヴ1983」
「ピエール・バルー監督/サラヴァ 時空を越えた散歩、または出逢い」